今日は義父の25回忌でした。浄土真宗のお坊さんが自宅まで来てくださってお経をあげて下さいました。お話もありきたりでなくて面白かったです。
「南無阿弥陀仏」の言葉にはパワーがあり、阿弥陀仏にお願いすることで永遠の光を得られるということだったかと思います。直接はご存知ない義父のことも積極的に話題にして下さり、とても和やかなあたたかいムードの法事となりました。
そのお坊様、珍しい苗字でいらっしゃるのでご出身をお尋ねすると広島の方だとのこと。しかもカープファンだとおっしゃいます。「昨日は悔しい思いをしましたが、日本ハムの優勝を讃えているんですよ、広島ファンは。みごとだった!でも残念だったなぁ」
仏道の奥義をやさしい言葉で伝えて下さる一方、世俗のことを楽しむ姿勢は人間味があって、親鸞聖人の教えを実践されてるのだなぁと思いました。厳しい修行に耐えてたどりつく教えもあるかもしれませんが、日常を自分らしく生きることがこの世に生まれてきた甲斐であるとの考え方に、納得し共感をしたのでした。
いろいろな方とご縁をいただいている私は、何十回も慶事・弔事を経験しておりますが、今日のような法事の場こそ実はお坊様が真価を発揮なさるときだと私は日頃から思っています。一同に会した故人のゆかりの人たちに仏の教えを説くことは、お坊様の大切なお勤めだと思うのですが、お経をあげてハイおしまいという「高僧」も世の中には結構いらっしゃいます。「高徳の僧」ではないんだなと残念に思うこともあったりするのです。
人を導けない人が、亡くなった方の魂を浄土に導くことなど困難です。
亡くなった方が極楽浄土に行く(往生する)ためには、残された者の心の持ち具合も大切だからです。
いつまでも故人に未練があるようだと、亡くなった方も成仏して浄土に行くのに後ろ髪をひかれてしまうため、残った者たちが穏やかな心持ちになれるようなお話を集った方々にあわせて語ることはお坊様の大切な仕事なのです。
「絆」は一般的には「きずな」と読んで、人と人をしっかり結び付けるもののことをいいますね。
ところが一方で「絆」は「ほだし」とも読みます。
もともとは馬の脚や人の手足を縛って自由を奪う綱のことをいいました。それが平安時代になって仏教が貴族の生活に入り込み、出家することに心の平安を求めるようになると、出家の邪魔となる親しい人間関係のことを「ほだし」と呼ぶようになるのです。
厳しい修行系の仏教は妻帯も仏道の邪魔になるとの考えから、お坊様は結婚されませんでした。キリスト教でも旧教(カトリック)の神父さまは生涯おひとり身を貫かれますね。
ところが親鸞は妻帯を可としました。キリスト教でも新教(プロテスタント)の牧師さんは家庭をもつことを普通になさってますね。それと同じことだと思います。
今日いらしたお坊様はご自分のご家庭のお話はされませんでしたが、ご趣味が豊かな方で、楽器のお話やらスポーツのお話、演奏会に歌舞伎のお話・・・と人生を楽しんでらっしゃるのがわかりました。
さて宮城県石巻市の大川小学校の津波訴訟。仙台地裁は、学校側の過失を認めて市と県に14億円(児童23人の遺族に対して)の損害賠償を命じました。
安全な裏山に逃げようとした子どもたちを学校にとどめたために災害に巻き込ませ、結果助かるはずのたくさんの命が失われたと聞いています。
東北には「津波てんでんこ」といって、津波が起きたら自分の命は自分で守ることが何より大切であるという深い教訓があります。各自てんでんばらばら高台に逃げろ、各自が自分を守ることでたくさんの命が助かるというわけです。
これは決して利己主義ではありません。あらかじめお年寄りなどの災害弱者をどうやって助けるかを決めておくわけです。その上で、緊急の場合は自分にできる最大の避難をすることが大切だと説いた教えなのですね。
子どもたちは裏山に逃れようとした。ところが学校側が「てんでんこ」を認めなかった。その結果たくさんの命が失われた。「みんなで一緒に」という考えが「ほだし」となったのです。先生方もどうしてよいか判断がつきかねたのでしょうね。子どもたいの安全を考えないはずはありませんもの。でも結果は・・・
今日のお坊様はお話の最後に、「人は生まれるときも死ぬときもひとり」とおっしゃいました。
絆(きずな)は美しいですけれども、絆(ほだし)は生きにくい。命はもともと「てんでんこ」です。「きずな」を大切にしつつも「てんでんこ」の精神で生きていかねばなぁと感じた日となりました。