長男がまだ幼稚園に通っていた頃のこと、上の娘が詩の暗誦をしていたのがカッコイイと思ったのでしょう、
「オレもやってみる!」と殊勝なことを申すものですから、ものは試しと
私「雨にも負けず」
ぼーず「あめにもまけず」
私「風にも負けず」
ぼーず「かぜにもまけず」
私「雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫な身体を持ち」
ぼーず「ゆきにもなつのあつさにもまけぬじょうぶなからだをもち」
私「欲は無く決して怒らす」
ぼーず「よくわなくけっしていからず」
私「いつも静かに笑っている」
ぼーず「気持ちわりぃ~」
なんてことがありました。
ご存知の通り、これは宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」です。手帳に漢字とカタカナで書かれたこの詩はあまりに有名ですが、小学生の時にこの詩と出会ったとき、「気持ち悪い」というよりも「意味わかんなーい」って感じでした。
最後の「みんなにでくのぼうと呼ばれ、褒められもせず苦にもされず、そういう者に私はなりたい」という部分が全くわからなかったばかりでなく、こんなことを言う宮沢賢治が、あまり好きではないなと思いました。
人というものは、「立派な人」を目指していくものだとばかり思っていたからです。
それなのにこの人は「でくのぼうと呼ばれ、褒められも」しない存在になりたいというのです。
何だか不甲斐なく、大人のくせに情けないなぁくらいに感じたものです。
今、自分が大人になって、いろんな痛みや困難なことも経験してみて、少しだけ「こんなことかな?」と思うのは、やるだけやったら、後は人の評価を気にする次元ではないということなのかもしれない、ということです。
石が大好きで「石っこ賢さん」と親しまれ、星などの天体を愛し、クラシック音楽を聴き、農民と共に生きた宮沢賢治は、究極の自然体の人だったのかなと思います。
人のために全力を尽くし、病で倒れても、相談に訪れる農民に肥料の量をアドバイスしたという賢治の気持ちが、最近はほんのちょこっとだけわかるような気がしています。
アドラーは「幸せになる勇気」という本の中で、こんなことを哲人に言わせています。
「先生のおかげで卒業できました」とか「先生のおかげで合格できました」と言わせる教育者は、ほんとうの意味での教育には失敗しています。生徒たちには、自らの力で成し遂げたと感じてもらわなければなりません。
宮沢賢治が目指していたのはこの境地のような気がします。
でも、これじゃ報われない?
アドラーはさらに哲人にこのように語らせます。
教育者は、孤独な存在です。誰からもほめてもらえず、労をねぎらわれることもなく、みな自力で巣立っていく。感謝すらされることのないままに。
(その孤独を受け入れ)生徒からの感謝を期待するのではなく、「自立」という大きな目標に自分は貢献できたのだ、という貢献感を持つ。貢献感のなかに幸せを見出す。それしかありません。
人間の私は、つい「ありがとう」の言葉に喜びを覚え、「ありがとう」を言われたいばかりに頑張ってしまうことが多かったように思います。
まだまだ人間の私は、まだまだ「ありがとう」の言葉が好きだけど、最近はやるだけやったらあとは「ありがとう」がたとえなくても「ま、いっか」くらいには思えるようになってきました。
鑑定のお仕事も、相手に徹底的に寄り添い、天からのメッセージを誤りなく伝えたら、あとは相手(クライアントさん)にお任せしようと思えるようになってきました。
身体も心も人は自然治癒力を持っている存在です。
その「自然治癒」に少しだけ貢献させていただけるなら、これ以上の幸せはないのかもしれません。
本日もおつきあいいただきましてありがとうございました。