何かイヤなことが起こると私たちは「あぁ、バチが当たった!」と口にします。では、バチって何でしょう?そしてバチを当てるのは誰?そもそもバチなんてものがあるのでしょうか
まず、神は人間にバチなど当てません。神は私たち人間を見守っていて下さる存在です。また手を差し伸べてくれたりもします。人間は神のもとからやって来てこの世でそれぞれの学びをして、それを繰り返してやがて神のもとに還っていくものです。その学びの進展具合を見守っていて下さるのが神という存在なのです。神は天といってもよいでしょうし、宇宙かもしれませんし、この世を生み出した存在ですから、人が立ち直るのを見守りこそすれ、バチを与えたりはしません。
キリスト教では、人間は「罪の子」と考えられていますね。アダムとイヴが蛇にそそのかされて、神から食べることを禁じられていた知恵の実を食べてからというもの、人は原罪という罪を背負ってこの世に誕生してきたという考え方です。その人間の罪を贖う(あがなう)ためにこの世に派遣されたのが、Jesus Christ(イエス・キリスト)です。キリスト教では、イエス・キリストだけが唯ひとりの神の子という考え方をします。そのイエス様が人間の弱さゆえ、磔(はりつけ)にされた、そのことを忘れずに神の前に額づくために「十字架」を拝むわけです。
鎌倉時代に親鸞が開祖となった浄土真宗の教えも、人は悪なり、という考え方です。ですから有名なあの「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という言葉が生まれたのです。「自分は善人だと思って仏に救いを求めない者だって極楽浄土に行けるのだから、ましてや自分は悪人だと思って仏にすがる者はどうして往生を遂げられないことがあろうか」という教えです。「悪人は仏にすがるから往生できる」わけで、悪人正機説(あくにんしょうきせつ)といいます。唱える言葉の「南無阿弥陀仏」とは「阿弥陀さまに全てをおまかせします」という意味です。
さてそれでは、日本古来の神についての考えは、「八百万(やおよろず)の神」というように、物みな全てに神が宿るという非常におおらかなというかアバウトな感じです。山には山の神、海には海の神(わたつ神・わたづみ)、岩にも樹木にも神は宿ります。考えてみれば、十干の全てに神が宿っているわけです。甲(樹木)乙(お花)丙(太陽)丁(火)戊(山)己(土)庚(岩の鉱物)辛(宝石・パワーストーンのうちでも光るもの)・壬(海・川)・癸(雨水)という具合です。
つまり、十干に当てはめることのできる私たち人間も神(神から生まれやがて神に還るという意味で)だということになります。西洋でも、キリスト教以前の自然を崇拝する教えはゆったりしたものが多かったようです。また、キリスト教徒といえども自然と一体になり。自然に神性を見出した人も少なからずいると思います。
アッシジ(イタリアの地名)の聖フランチェスコのお名前はご存知ですか?彼は小鳥に説教(神の教えを伝えること)したり、オオカミを回心させたりしたという伝説が残されている霊性を備えた修道士です。
ですから、教義をつきつめるとキリスト教での人間の存在は「罪の子」となりますが、実際のクリスチャンの方は敬虔という言葉がふさわしく、常に心の中に神を置いて、実際にボランティアなどの活動に従事される方を多く見ます。「罪」とは正反対な感じです。
神は「バチ」を与えはしない。それでは「バチ」と感じるものは何でしょうか?それは、因果応報という仏教の説法のようなものだと思います。よいことをしたらよいことが、また反対に悪いことをしたら悪いことが起こるというものです。でもどう考えても、仏が人にバチを与える存在とは考えられないのです。仏の解釈は2通りありますが、仏をお寺にあるご本尊だとしたらまずバチは与えません。ご本尊は神の別のお姿だからです。では仏をご先祖だと考えた場合はどうでしょう?やっぱりバチは与えないと思います。可愛い子孫の嘆き悲しむ姿を見たいと思うご先祖はいないはずです。きちんと魂が次のステップに進んでるご先祖の場合は、です。
ところが、ご先祖の中で何かトラブルに巻き込まれて亡くなって、そのままこの世にとどまって(成仏できないといいますね)次のステップに進めない魂がいたとしたら、そのことに気づいてほしくて障りを起こすのではないかと思われます。障り(さわり)とは触りです。つまり人にタッチして何か起こすのです。気づいてもらいたくてハッとさせるのですね。「早死にの家系」とか、「願いがかないにくい」とかはその例です。「魂魄この世にとどまりて…」という困った現象です。お化けとか怪奇現象などがそれに当たります。行き所のない魂はこの世をさまよって、気づいてもらいたくて、ワルサをするのです。
そのとき、発する「気」が強い人にはワルサの効き目がないので、「気」の弱くなっている人や弱くなっている時に現象を起こすのですね。気持ちがふさぎ込んでいるときに電車に飛び込んでしまうとか、ふらふらっと負のエネルギーの方に近寄っていってしまうとかがそれです。「気」の迷いにつけこまれるのだと思います。
では「障り」を受けないためにはどうしたらよいのでしょうか?それは「感謝すること」ではないかと私は思います。私たちを生み、見守ってくれている天やご先祖に思いを馳せ、感謝の念を持ち、もし足りないことがあったらお教えくださいと向き合ってみることではないかと思います。「感謝」の「気」はあたたかくて幸せの雰囲気を醸し出すので、悪いものは近寄れなくなると思うのです。
「障り」をうけやすいのは、不平不満です。「どうせ・・・」とか「私なんか・・・」というマイナスの「気」は暗いので、暗いものが寄ってくるのです。「疲れたぁ」もあまり口にしない方が良いでしょう。「つかれた」は「憑かれた」つまり悪い気に「とり憑かれた」ということだから、代わりに「くたびれた」と言いなさいとよく母に言われたものです。まあ、悪い意味の言葉は敢えて口から発しないということではないでしょうか。
結論は、神(天)やご先祖様は「バチ」を与えはしない、この世にとどまっている魂が気づいてもらいたさに「障り」を起こすのだということです。
なお、「バチ」とは「罰」が語源のようです。とはいえ、あの名作「罪と罰」が「罪とバチ」だと何だか民話的になりますね。
魂の問題は奥深いので、また折りを見てお伝えできたらと思います。本日もおつきあいいただきありがとうございました。なお、本日の話題も一部「過去世」の本に啓示を受けています。