ここにお二人のおばあちゃまがいらっしゃいます。千代さん(仮名)と小夜さん(仮名)です。お二人とも実に上品で、生まれもお育ちもよいであろうこと、そしてご主人は既に他界されていることが同じです。異なるのは現在の生活環境です。
千代さんは、お子様たちが皆家を出ていかれたため、お一人暮らしです。たまにお嬢さんが訪ねてらっしゃるほかは全てご自分で身のまわりのことをなさっています。90歳を過ぎていらっしゃるけれども、先日も雪かきをなさっていました。買い物もご自分でなさるし、「ひとりだから時間があるのよ」と図書館で本を借りて読書も楽しんでいらっしゃいます。
小夜さんは、お嬢さんのご家族に囲まれて暮らしています。。お孫さんも「おばあちゃん、おばあちゃん」と慕ってよく車でお出かけする姿が実に幸せそうでした。最近お姿を見かけないのでどうされたかなと思ってましたら、昨日そのお嬢さんと仕事帰りに会い話を聞くことができました。どうも認知力が低下しているようなのです。以下そのお嬢さんの許可を得てご紹介致します。
生活に困ったことのない小夜さんは、大概のことは自分の思い通りになってきた実にお幸せな方です。お若い頃は大変な美人さんであったと思われるその小夜さんの口癖は「わからないわぁ」だったそうです。「わからないわぁ」と言うとご主人は何でもやってらしたそうですし、ご主人亡き後はお嬢さん家族が書類の記入から役所関係のことなどやってさしあげていたようです。そのうちお食事の支度も掃除も洗濯もみんなご家族が手分けしてなさるようになったせいか、おばあちゃんはやることがなくなり、今現在は本当に「わからないわぁ」となってしまったというのです。一度失禁なさってからはすっかり落ち込んで外出を一切なさらなくなってしまったのだそうです。それで最近お見かけしなかったのです。
この事例が教えてくれることは色々あると思います。
幸せってなんだろうということ。いっけん年取ってからの独り暮らしより、ご家族に囲まれて暮らしている方が幸せな光景に思えます。けれどもいつまでも生き生きと暮らせることを幸せと考えた場合、全部まわりに任せてしまうより自分で何でもやるという姿勢が結局いつまでもできる力を与えられるのかなと思います。
また、能力は使わないと失われてしまうもの・・・かなということ。反対に、使い続ければいつまでも能力を保っていける可能性はあるし、むしろどんどん活性化されるものかもしれません。歩かないですむ生活をしていると足腰は当然弱るし、昔は覚えていた数人の電話番号が今はスマホや携帯任せで覚える気持ちすらないという現実があります。聞こえないふりをしているうちに本当に聞こえなくなってしまったという話も以前聞きました。退化ということでしょうか。
唐織の伝統を今に継承しつつオリジナリティも生かして作品を生み出している清左衛門さんという方のお話を先日直にうかがいました。平清盛が厳島神社に奉納した能の装束を再現された方です。その話の中で最も印象深かったのは、豪華な衣装がぼろぼろにならないためにはどうするかということです。
大切にしまっておいては駄目だそうで使い物にならなくなるのだとか。使い続けることでずっと美しさを保っていけるのですって。多少いたんでもです。人間も同じかなあと思ってしまいました。
脳や心は鍛える程に発達するもののようです。特に心は、色々な経験をして色々な感情をきちんと味わってこそ、柔軟性を増すのだそうです。強い心は、悲しみも辛さも経験してきた心なのだとか。
身のまわりのことは自分でなるべくやっていくという意味も含めて、広い意味での生涯現役でいるために、何事も「わかるかも」「できるかも」という姿勢で過ごせるといいですね。