人は死んだらおしまい ではなかった

突然の事故で尊い命を落とす悲惨なニュースがまたもや起こりました。

大阪の繁華街での自動車運転による事故です。

四柱推命を共に学ぶ仲間のMさんから、運転していた方の「傾斜」から原因が見えてきたというメールをいただきました。Mさんは、事件・事故が起こると、いちはやくその原因解明を突き止めるべく、ともかく関係者の誕生日をキャッチする能力に長けている方です。

どうやら、自動車を運転していた方の「傾斜」は、「六白(ろっぱく)」の部屋に「破(やぶれ)」がついていて、交通事故大動脈解離という現象が見えてくるそうです。

 

さて、この事故ではふたりの方が亡くなっているそうですが、このように突然の死、しかも予期していなかった死を迎えた場合、いったい亡くなった方の魂はどうなるのか?

以前購入して本棚にいた本が今日私の目にとまりました。「死んだらおしまい ではなかった」という大念寺ご住職の大島祥明さんという方が著わされた本です。〈PHP研究所〉

その本によりますと、亡くなった直後、ほとんどの人は自分が死んだことがわかっていないのだそうです。

以下引用

お通夜の儀式の場で、亡くなった「本人」はどこにいるのでしょうか。だいたいの場合、「本人」は遺体の近くにおります。そして、遺族や僧侶が葬儀を行う様子をじっと静かに見ているのです。葬儀の光景も遺族の方々の様子も、「本人」には見えています。声も聞こえているのです。

けれどもじつはこのとき、二、三割のくらいの人が、自分が死んだことがわかっていません。ボケーっとしているというか、もうろうとしていて、呆然としている方が結構おられます。キョトンといかボケーっというか、要するに「なにがなんだかわからない」といった感じなのです。

そしてお経をあげいるうちに「疑っている」感じになるのです。「本人」が「自分は葬式の夢を見ているのだ」と思っていたり、または思いこもうとしているようなのです。お経をあげながら、こうした本人に向かって「あなたは死んだのですよ」と教えていくわけです。

大谷僧侶は、こう続けます。

故人に自分の死を悟らせ、俗世の未練を断ち切らせていくのが通夜であり、葬儀の本質的な意義なのです、と。

この大谷さんのように、亡くなった方に本当の葬儀をしてくださる、つまり亡くなった方に自分が死んだことを悟らせることのできるお坊さんは少ないのではないかと思います。死んだ自覚を持って初めて仏教でいうところの浄土に進む覚悟なり決意ができるはずなのですが…

きちんと死んだことを自覚しなかったり、本人&遺族の思い(未練)が強すぎると、次のステップに進むことができずにこの世をさまよいます。思いはことのほか「重い」ので、足を引っ張るようですよ。

突然の事件・事故で命を奪われた場合、この「死の自覚」ができにくいとい点が問題なようです。また続きは明日。

 

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