今日4月30日は「蕎麦の日」なのだそうです。毎月月末に縁起物として蕎麦を食べていたことが由来なのですって。義母の通うケアセンターからのお知らせに記されていました。そして奇しくも、今日の私のお昼はお蕎麦でした!
一人で行動している時のお昼は、断然お蕎麦が多いです。東京の郊外に暮らしているものですから、都心に用事があるときは移動だけで時間がかかります。どうしてもお昼をはさむことになりますので、そんな時のお昼ごはんはすぐに食べられるお蕎麦に限ります。
高級そうなお蕎麦屋さんでも結構当たりハズレがあったりするものですから、駅構内の立ち食いそば屋さんをよく利用しています。立ち食いそば屋さんでお味は満足でも、冬場は、コートなど脱いでも置き場所に困ることもあるのですが、それでも懲りずに「座れる立ち食いそば屋さん」に今日も今日とて・・・
さて中国の韓非子のお話に「典衣典冠」という話があります。「侵官の害」という題名でご存知の方が多いかもしれませんが、それはこんな内容です。
昔、韓の国の昭侯が酔って眠ってしまった時に、そのままでは寒かろうと「典冠」という、冠のお世話をする者が王様に衣をかけてさしあげました。眠りから目覚めた王様は左右の者に「いったい誰が衣をかけたのか」と尋ねます。左右は答えます。「それは典冠です」
すると王様は「典冠」と「典衣」の両方の係を罰したのです。「典衣」は王様の衣の着衣を担当する者です。
何故でしょう?
「典冠」は自分の範囲を超えた仕事をした罪。そして「典衣」は仕事を怠った罪。「寒さがいやでなかったわけではないのだよ」と王様は言います。自分の職務をしっかり守れという戒めなのですね。
これは、ぞっとする程こわい話であると私は思います。「考える」ことを禁じているように思うからです。自由な発想やアイディアなぞご法度です。「言われたようにやっていればよいのだよ!」ということなのですから。
もっと言うなら、これは究極の人間不信の王様なのではないかと思います。臣下の発想や行動の自由を奪うことで手も足も出ないようにしているわけですから、なにも自分で進んでやるなということ、つまりことを起こすことを禁じているのです。
この話を書いた韓非子は、性悪説を唱えた荀子(じゅんし)の教えを発展させて、厳格な法によって国家を統治すべしという考えを築いた思想家です。いわゆる法治主義というものを唱えた人ということです。人は善なる存在だから徳によって国を治めようとした徳治主義とは正反対の考え方といえますね。
報道の規制、もしかしたら自主規制がされているかもしれない今の時代、この話はもっと論じられてよいような気がします。上のご機嫌をうかがって自分で行動を規制するのでなく、誰でも自由に活発に意見が言える社会をみんなで築いていく、それがどれだけ価値のあることなのかを再確認することが今求められているのではないでしょうか。
この他にも韓非子の説いた教えは「不信」に満ちています。君主が人を従わせる力の源は「刑罰」と「恩賞」だというのです。たとえば臣下が何か発言したとします。行動がともなっていなかった場合は処罰の対象です。これは言葉よりも行動が劣っていた場合のみならず、勝っていたとしても「言行不一致」で処罰されるのです。
またこんなことも。君主は自分の好悪を臣下にさとられてはならないというのです。君主の思いや考えがわからなければ、臣下に取り入る隙を与えずにすむというのです。臣下に限らず、君主を惑わそうという者は、「女」「側近」「親戚」さらには「芸人」「やくざ」・・・果ては「外国」も。
つまり関わるもの全てが危険に満ちているということです。そうでなくとも「さびしい王様」はこんな教えを説かれたら、ますます孤独になってしまいますね。このように人間不信に陥った末に、側近をどんどん闇に葬った人物がいましたね。そんなに遠くない過去です。そして今もなお。
このような考えを確立した韓非子という人物ですが、彼は生まれながらにひどい吃音であったと言われています。ずいぶんいじめられたようです。もしそれが彼を人間不信にしてしまったとしたら悲しいことです。
もっと悲しいのは韓非子の最期です。隣国秦の王は彼の書に感服して韓非子を登用しようとするのですが、これに危機感を持った李斯という王に近い男が讒言(ざんげん)します。ありもしないことを王に言いつけて韓非子を陥れたのです。このため牢屋につながれた韓非子に、李斯は毒薬を盛り自殺を促します。韓非子はこうやって牢獄の中で毒殺されるのです。
念には念を入れて、だまされないように足を引っ張られないようにと法の網を張り巡らした頭のよい韓非子の最期はあまりに気の毒ですが、これが人間不信の極みなのかなとも思います。「愛」や「信じること」を彼に教えてあげる人はまわりにいなかったのでしょうか。
時代が悪かった?そうも言えるかもしれません。それでもなお人は人を信じて愛して生きていく方が幸せなように思います。笑わないお利口さんよりも、ワハハと笑うアホの人の方が人生面白く生きられるというものです。そして本当に「面白い」世の中のためにも、考えることを自由にできる社会は大切ではないかと感じます。
今日もお付き合いいただきましてありがとうございました。