いきなりですが、人って何回も生まれ変わっているそうです。
この夏の長谷川暢子先生のシータヒーリングの勉強会において、10人程の仲間と互いに相手のことをリーディングするということを色々なパターンで、色々な組み合わせでおこなったのですが、その全てをまとめてみると面白いことがわかりました。
どうやら私は過去の人生で中世ヨーロッパにいたこともあるようなのです。優雅なお姫様とかではありません。勇ましい女騎士だったようなのです。いなないて今にも駆け出しそうな馬に、鎧をつけてまたがっている姿が目に浮かぶと言われました。
別の仲間にはナポレオンが着ていたような赤いものを身にまとっていたようだと言われました。
まさしくジャンヌ・ダルクのような恰好をしていたね、とシータヒーリングに詳しい別の方にはそう言われています。
ふーん。そうなのかぁ。そうかもしれないなぁ。ジャンヌ・ダルクの映画はもう何度もみています。気になるんです。ジャンヌ・ダルク本人ではないと信じたいけど、祖国のために自分を犠牲にして闘った姿にはずっと心惹かれるものがありました。
幼い頃こんな歌がはやっていましたが、ご存知の方はいらっしゃいますか。「フランシーヌの場合」という歌です。
フランシーヌの場合は あまりにもお馬鹿さん
フランシーヌの場合は あまりにも可哀想
三月三十日の日曜日 パリの朝に燃えた命ひとつ
フランシーヌ
こんな歌詞だったと思います。何故か心にひっかかり、ずっと気になっている歌です。
何かのために立ち上がる、と言うのが理想の生き方、そのためなら何も惜しくないと本気で考えていた自分が重なります。
でももうそんな生き方じゃなくていいよと一方で言われているみたいで、それだから今世(今回の人生)では女として結婚し、子どもも4人もいるのでしょう。子どもがいるから生きることを選択して生きているのかもしれません。
でも夫には見抜かれています。夫には私は織田信長に見えるというのです。その心は?・・・「ついていけない」なぁんて。
まだ自分で自分を読みとるだけのことができていないので、それができるようになったらまた話題にしてみますね。
そうそう、修道院にいたこともあったようです。これは自分でも映像が浮かびました。だからヨーロッパに行くと(結婚後は海外には行ってないけれど)教会に行きたくなっていたのだわ。実際に私は巫女をやりながらクリスチャンになろうとしていたこともありました。
中学高校でプロテスタント(聖母マリア様の像がない方のキリスト教)の学校に通っていたので、日曜日には教会に通いましょうと言われ、私は積極的に通っていました。墨田区にある緑星教会というところです。そこに通うドイツ人のかわいい女の子と仲良くしていたこともありました。文通していたような、そういえば。
異国情緒に憧れて、教会が終わってから御茶ノ水でおりて湯島聖堂に寄って孔子の像に会い、聖橋を渡ってニコライ堂に行き神父さまとお話したりしてました。ニコライ堂はロシア正教というキリスト教の宗派です。カラマーゾフの兄弟などロシアの作品でご存知の方も多いと思います。お香の香りが独特ですし、洗礼された方につけられるクリスチャンネームもロシア人のような名前がつきます。
さらには今度は四ッ谷でおりて、イグナチオ教会にも行くのでした。クリスチャンの方に交じってミサに出させていただいたこともありました。
今は無くなってしまったけれど、昔は教会わきにシスターの方がいる売店があって、聖書の言葉が記されたカードなどが販売されていたあの空間が大好きでした。幼い子が駄菓子屋さんに通うような気持でよく通ったものです。
何故あんなにふらふらと、あっちの教会、こっちの教会・・・と何かを求めるように訪ね歩いていたか、自分の過去世を思うとわかる気がします。
そして、人は何度か生まれ変わっているようなのですよ。
初めて訪れた場所なのに前にも一度来たことがある、とか
初めて会うはずなのにどこかで会ったことがある気がする、
初めてやることなのに前にもやったことがある、とかいうのは前の世で経験していた場合が多いでしょうね。
魂は不滅ですからね。
ただ、私にはまだ、人はどれくらいのサイクルで生まれ変わるものなのかまではわかりません。
きっとこれからわかるはずです。わくわくします。
こんなでいいかなと書き進めながら今日は何度もルーンに尋ねていますが、その度に「いいよ」というのでこのままアップします。まとまらない内容でごめんなさい。
本日もおつきあいいただきましてありがとうございます。今日はルーンストーンにもてあそばれたようなそんな気もします。