子どもにできて大人にできていないこと

今日は日本では春分の日にして、お彼岸の中日(ちゅうにち)。川の向こうに渡ったご先祖さまたちが、彼岸(あちら側)から此岸(こちら側)に還っていらっしゃっる期間の真ん中の日です。

アフガニスタンでは今日が新年の始まりの日なのだとか。アフガニスタンの春はすももやピスタチオの花が咲く美しい季節だといいます。

しかしそのアフガニスタンは長く戦争の地として村は破壊され、人々の暮らしも脅かされ、多くの人の大切な命が奪われました。約40年前のそのとき日本は無関心でした。アフガニスタン紛争(1978年~1989年)です。当時FEN【Far East Network】(極東放送)と呼ばれていた米軍基地の放送局では連日アフガニスタンでの戦争のニュースを放送していたのに、日本では新聞もテレビも大きくとりあげていませんでした。1989年から2001年の長きにわたった紛争の時は対応はもう少し違いましたが、遠い異国の地という印象はあまり変わらなかったかもしれません。

「知らなかった」ということは簡単です。知ろうとしない罪を私たちはもっと認識しないと、いつか「知ってもらえなかった」ということになってしまうのではないかと危惧します。

インターネットが普及して世界はつながり、スポーツや文化を通しては世界は一つみたいなことが叫ばれているというのに、一方では驚くほどの排他主義が頭をもたげているのも事実です。

シリアからの難民を積極的に受け入れていたドイツのメルケル政権が危機を迎えているようです。100万人を超えた難民とどのように向き合うか定まらないのでしょう。昨年大晦日にケルンの広場で、大量の難民が女性を取り囲んで性的暴力と窃盗を繰り返したことが明らかになってからというもの、難民受け入れを「Wiiikommen(ようこそ)」と歓待していたのが手のひらを返すように、反対に舵をきったかたちです。

人種のサラダボウル(かつては「るつぼ」といわれました)であるアメリカの次期大統領の座を狙うドナルド・トランプ氏の過激な排斥発言も驚きます。それが一定の支持を集めていることにも驚きます。メキシコとの国境に壁をつくり、費用は勿論メキシコにもたせるというものです。過激な発言の矛先は日本にも中国にも向けられています。

ローマ法王の忠言もなんのその。まさに畏れを知らない行為です。

生活が苦しいのを他民族の存在が原因だ、だからそれをなきものにしようという発想がかつて恐ろしい過ちを犯したことを私たちは忘れてはいけません。

「おとなりの人とも仲良くしましょ」ということができないでいる大人たち。そして私たち大人の隣人は大概悪者です。話してもわからないどうしようもない「わからずや」なのです。「わからずや」はやっつけるしかない。やっつけなければやられてしまう。大人はそう考えます。

子どもたちはおとなりの子と手をつなぎましょうと言えばつなげます。ケンカもするけれど、仲直りもします。

子どもにできることが、なぜ大人になるとできなくなってしまうのでしょうか。おかしいですね。