今週もレインドロップ、シータヒーリング、四柱推命・・・とサロンを訪れるお客様から色々なセッションのご希望をいただいております。
今日のお客様は中学生のお嬢さん。
先日、お母様と一緒にレインドロップを受けに来て下さった聡明なお嬢さんです。
彼女、学校に通えてなかったのですが、レインドロップを受けて下さってから、徐々に学校に通える日も出て来たそうです。施療に来て下さったのが1月半ば過ぎです。そこから変化が起こったことを昨日は伝えて下さいました。嬉しいお知らせです❤
学校に通えない・・・実際、我が子がいわゆる「不登校」の状態になったら、親として内心穏やかな気持ちではいられないと思います。自分を責める親御さん、それを見ていてますます本人は辛くなる・・・ということも大いに起こり得ることですね。
けれども学校に通えなくなるお子さんは、案外「強い」場合が多いんですよ。
だって、人と違う行動をとることができるのですから。
何らかの「理不尽」を抱えている場合もよくあります。
ですから、その「理不尽」を解消できれば「不登校」の問題も解決できる場合が多いのです。
人は、特に日本人は、「みんなと同じ」であるとホッとしますね。
人から頭ひとつ抜きん出るだけで、叩かれたりする、という思い込みがあります。
「出る杭は打たれる」ということわざすらあるくらいですから。
確かに、人と違うことをすることは勇気が必要です。
けれども敢えてそうするということには理由があるのです。
それはチャンスかもしれません。
家族の問題かもしれませんし、学校の問題かもしれません。
友人間に何かあるのかもしれないし、学校に通うまでの過程であることもあります。現に痴漢の被害で電車に乗れなくなった生徒を知っています。しばらく彼女と会話することでいっとき通えるようになりました。(深いところに原因がある場合はもっと多くの時間か、シータヒーリングが有効です。)
学校という場は、教える側からいうと、「来てほしい」ところです。
工夫して、「面白いこと」を提供していきたい、そんな場です。
それぞれの児童・生徒の持っている「宝もの」を一緒に発見して伸ばしていってあげたい場です。
けれども現実には、画一的であったり、望まないのに優劣をつけられたり、価値観を押しつけられたり・・・などの場となっていることも多いです。
そこに何の疑問も持たない子は「普通に」通り過ぎることもできますが、問題意識が強かったり、感性があまりにも研ぎ澄まされていたりする子だと、「おかしいな」となることが出てくるのです。
納得がいかないのですね。
世の中では、それを「わがまま」と決めつけることがありますが、案外そんなことでもないのです。
心のある先生や、ご自分も問題意識を持って過ごされた先生ならわかって下さることもありますが、複数の児童・生徒を相手にする以上限界があります。
先生自身がくたびれてしまうケースも多いですよね。
整理すると・・・
学校に通えないこと自体は、よいことでも悪いことでもありません。
変化のチャンスと捉えたら楽ですね。
「わがまま」なのではなく、どこかに問題があるということです。
そして、それは世間がよく言うように家庭が問題と決めつけてはいけません。
原因は様々なのです。
現に昨日いらしたお嬢さんはご家庭には問題はありません。
それどころか、親御さんが温かく見守ってくれていることにお嬢さんは感謝していました。
お母様も深く理解のできる素晴らしい方でした。
自分の価値判断を押し付けることなく、穏やかに見守ることのできる優れた方である、とも言えます。
そんなママのところだから、お嬢さんは安心して生まれてきたのでしょうね、きっと。
そうしてお嬢さん自身はクリエイティブなことを仕事にしていきたいという夢を持っていらっしゃいます。
「人と違う」ことを生かしていける仕事です。
シータヒーリング終了後、お嬢さんはこう感想を書いて下さいました。
「今日、音楽が好きで音楽に関わっていきたいと思っていた理由が分かりました。音楽は人と違うものをつくっていくこのだから私に合っているのだと気付く事ができました。」
「人と違う」ことは素晴らしいことです。
それこそが「個性」です。
自分の価値判断を押し付けるのではなく、「本当はお子さんが何をやりたいのか」にフォーカスすれば、「個性」を発揮することを応援していけます。
それがその子の適性を重視してあげることになるのだと思います。
子育てで大切なのは子どもを信じることです。まるごと信じるのです。
実は、シータヒーリングの考えもこれと同じなんですよ。
クライアントさんをまるごと信じることから始まります。
答えは全てクライアントさんの中にある、と信じるのです。ただ本人が気づいてないだけなんです。
その、本人も気づいてない宝物を一緒に探しに行くのがシータヒーリングなのです。
それはまるで宝物の箱を探しにふたりで新海に潜ることに似ています。
または秘境の奥地にある湖への旅のようでもあります。
とても魅惑的な旅であることは確かです。
時に求めていたものは、既に掌中(手のひらの中)にあるということもあります。
持っていながら気づいていないだけだった、というわけです。
色々な世界を探し回った青い鳥が、実は足もとにいたりすることもあるのです。
問題は、もはや問題ではなくなるのですね。
問題こそ宝に気づかせてくれる存在であるともいえるのです。
そう考えると、問題をもっていることや問題に気づくことは宝探しのスタートであるとも言えますね。
本日もおつきあいいただきましてありがとうございます。