高校3年生と現代文で「無常ということ(原題・無常といふ事)」を読みました。
小林秀雄の評論的エッセイですが、この中の「西行」と「実朝」に思いを馳せている文が秀逸です。
もともと武士であった西行は出家して諸国を旅して歌を詠みます。
心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕ぐれ
〈出家してこの世の情(こころ)を捨てた身にもしみじみと感じられるものだなあ 鴫(しぎ)が飛び立つ沢の秋の夕暮れの景色は〉
「三夕(さんせき)の歌」として名高い歌ですが、私は何故か高校生のときに次の歌にぐっときました。
年たけてまた越ゆべしと思ひきや 命なりけり 小夜の中山
〈年老いてからこの難所と言われる小夜の中山をまた越えられるとは思わなかったなぁ、命があってのことなのだなぁ〉
「命なりけり」というところに、深い感慨と、もの凄いパワーを感じたのでした。訳すと味わいが失われますね。
そしてまた次の歌はご存知の方も多いのではないかと思います。
願はくは花の下(もと)にて春死なむ その如月の望月のころ
〈もしできることなら桜の花のもとで春に死にたい、如月(二月)の望月(満月)の頃に〉
この歌の通り、西行は二月の半ば(16日)にその命をまっとうしました。太陽暦では3月の末に当たり、まさしく桜の真っ盛りです。自分の死ぬ時期を見定めていたのでしょうか。大好きな桜と月に見守られて最期を迎えたいと願い、その通りになった、理想的な最期だとよく言われますね。
しかし、西行は花や月を愛したけれど果たして友だちだったかは疑わしいと小林秀雄は言います。「自然は、彼に質問し、謎をかけ、彼を苦しめ、いよいよ孤独にしただけではあるまいか。」といい、さらに「彼の見たものはむしろ常に自然の形をした歴史というものであった」と、西行の生きていたとき(歴史)に思いを馳せるのです。
また「実朝」についての考察も面白いです。実朝とは鎌倉幕府の三代将軍で、鶴岡八幡宮の境内で甥の公暁に暗殺された、あの実朝です。
箱根路をわれ越えくれば伊豆の海や 沖の小島に波の寄る見ゆ
小林秀雄はこの歌に、孤独と悲しみを読みとっています。「耳に聞こえぬ白波の砕ける音を、はるかに眼で追い心に聞くと言うような感じが現れているように思う、はっきりと澄んだ姿に、何とは知れぬ哀感がある。耳を病んだ音楽家は、こんなふうな姿で音楽を聞くかもしれぬ」と語っています。
「西行」や「実朝」の記述でもわかる通り、小林秀雄は頭でっかちの評論家などではなく、人物の生きた時代にタイムスリップして共に語るようなことをした人なのではないかと思うのです。
それはこんな一節を読んだときに確信しました。
「比叡山で巫女の真似をしたうら若い女性が、夜更けて静まり返った頃にひとりで鼓をうって謡い、この世は無常だと語る」という一節に心奪われた小林秀雄が、実際に比叡山を訪れて、青葉や石垣やらを眺めてぼんやりとうろついているときに突然この文章が絵巻物の残欠でも見るように心に浮かんだのだそうです。しかも、文の細かなところまでもがくっきりはっきりと心に沁みわたって、その後しばらくは不思議な思いが続いていたというのです。
「ぼんやり」というところと「絵巻物の残欠でもみるようなふうに心に浮かび」というところから、これは脳波がシータ状態になったのに違いないと思ったのです。
このことを後で回想する記述からも明らかです。
「確かに空想なぞしてはいなかった。青葉が太陽に光るのやら、石垣の苔のつき具合やらを一心に見ていたのだし、鮮やかに浮かびあがった文章をはっきり辿った。よけいなことは何一つ考えなかったのである。どのような諸条件に、ぼくの精神のどのような性質が順応したのだろう。そんなことはわからない。(中略)ぼくはただある充ち足りた時間があったことを思い出しているだけだ。」
小林秀雄本人すら、あれは一体何だったのだろうと思うような不思議な体験が語られています。
「無常」ということを追い求めているうちに、彼はまぎれもなく鎌倉時代にタイムスリップしてその正体を見てきたということなのではないかと今の私は思います。
今の私は、というのは、夏休み前に生徒と読んだときには気づかなかったことが、夏に「シータヒーリング」を経験したあとに読むと、実に鮮やかに言っていることが理解できるようになったからなのです。
それではシータ状態とはいったいどんな脳の状態なのでしょうか。
アルファ波のときも瞑想しているようなリラックスの状態だといいますが、シータ波のときはさらに深くリラックスした状態で、潜在意識がよびさまされ、創造力とインスピレーションに満ちている状態だそうです。
ですから古来、夢のお告げとか、お風呂に入っているときにひらめいたとか、ぼんやりしているときに見えた、聞こえた、浮かんできたということが起こってきたのでしょう。
何かを追い求めている人が、なにげない日常の事柄からふと答えを見つけたりするのもそういうことだと思うのです。ひらめきですね。Inspire(インスパイア)されるからInspiration(インスピレーション)なのですが、そもそもInspireとはSpirit(霊感・精神)への働きかけなわけです。
しかもこれは高次なものからの働きであることが大切です。天とつながるということです。そうでない場合もあり、それはとても危険です。何かに導かれたといっても、それが暴力や危険をともなうものである場合は、おかしなものに乗り移られただけです。そしてこれがやっかいですが、やたらと攻撃的だったり悲観的だったり暗い思想である場合は後者である場合がほとんどだと思います。
天とつながることで、誰も成しえなかった前人未到の記録を出した人がいます。そう、ウサイン・ボルト選手です。彼が走る直前にいつもやっていること、それは天(神)とのやりとりです。走る前に「できました!」と決めてしまうワザ。これがシータヒーリングです。そしてその域に至るまでが、工夫と努力とたゆまぬチカラと、何よりも「それが大好きである」ということが条件であると思うのです。
小林秀雄もウサイン・ボルト選手も、分野も国も時代も違いますが、このワザを意識してか無意識にかわかりませんが使ったのではないかと思うのです。そして偉大な発明家、芸術家の多くがこのワザによって発明品や絵画・彫刻・音楽などを生みだしてきたのではないかと思います。名探偵(たとえばコナンくん)のひらめきも、きっと。
本日もおつきあいいただきましてありがとうございました。
そうそう、豪栄道は千秋楽に琴奨菊に勝ち、全勝での優勝となりましたね。今日はお母さんの真弓さん、安心して息子豪太郎の姿を見守っていらっしゃいました。
私は今日お墓参りの帰りに東京でたったひとつの「道の駅」にはじめて立ち寄ることができました。ムラサキシキブの鉢植えに目がとまり心が奪われて購入。それがこれです。癒しを与えてくれています。ではまた♡