憑りつかれたとしか思えないこと

今は亡き母に、使わないほうがいいわよと言われていた言葉があります。「疲れたぁ」という言葉です。「つかれた」は「憑かれた」ということだからやめておきなさい、という考えによるものでした。

ですから私は疲れたような気分のときは「くたびれたぁ」と言っていました。

悪いものに憑りつかれるというのは平安の頃には当たり前の考えで、たとえば源氏物語に登場する、はかない魔性の女「夕顔」は、光源氏を恋い焦がれた「六条の御息所」という年上の高貴な未亡人の生き霊(いきりょう)に憑りつかれて亡くなります。

亡くなった方の魂が行くあてもなくさまよって、気弱になったりマイナスの気を発している人に憑りついたりすることは想像できます(?)が、生きている人のマイナスの思いも、同じ波長を発する人のところに寄っていったりすることがあるようです。

いま世界を覆っているとげとげした「気」は、もしかしたらそんな影響だったりするのかなと不意に思いました。

障害のある方たちを無慈悲に襲ったひとは全く悪びれることなく捕らえられました。

原因は?と色々に検証されたり、正気だったか狂気なのかなど問題になってくることと思います。

確証はありませんが、変な気に憑りつかれたのではないかと何だか思ってしまいました。

世界のあちこちで起きている殺伐とした事件も、「申(さる)」の影響だと申し続けてきましたが、それって一体何かと考えてみました。「申(さる)」は金属で「刃物」や「武具」「金属でできた乗り物」などハードなものをあらわすわけですが、大気にそういうムードが満ちているということなのだろうと思うのです。

「ポケモンゲット」でなくて自分の心が変なものゲットされないように、乗っ取られないように、「気」をしっかり持って毎日を過ごしていきたいなと思います。

知っている人も知らない人も、会ったことのある人もない人も、障害のある人もない人も、誰も傷つかなくてよいような優しい場所にしていかないといけませんね、この地球を。

ひとごとではないのですもの。