袖ひちて結びし水のこほれるを 春立つ今日の風やとくらむ
紀貫之が立春の日に詠んだ歌です
「袖ひちて」とは「袖を濡らして」ということで季節は夏。
袖を濡らして手ですくった水が、冬を迎えて「氷ってしまう」のだけれど、それを「春立つ今日」に吹く風がとかしている、そんな意味の歌です。
たった31文字に四季(夏と冬と春だけど)が読み込まれているってすごいなぁと思います。
その貫之さんの果たした役割は結構大きいんです。
たとえばこの歌がおさめられている「古今集」って、当時の天皇から「作ってよ~」と頼まれて貫之さんら4人が選考委員になって選んだ歌集なのですが、その序文もまた彼は書いています、しかも平仮名で。
「仮名序」と呼ばれるものですが、
「やまと歌は 人の心を種として よろづの言の葉とぞなれりける」という有名な冒頭に続いて、存在の全てが歌をよむのだ、と言います。その歌には「力を入れずに天地を動かす」程のパワーがあり、「目に見えない鬼神(スピリット)」すら感動させる、そんなエネルギーがあるんだと言います。
そして「男女の仲」も和らげる力もあり、筋骨りゅうりゅうの男だって心がほっこりする、それが歌の持つ力だっていうんです。
歌の持つ力って、じゅうぶん今に通じることですよね。
「歌」が人の心をなぐさめたり、勇気づけたり、和やかな気分にさせたりって、時代も空間も超えていることです。
昔のお話を読んでいると、和歌の効果っていろいろだなぁと思わせられます。
たとえば、恋は歌のやりとり(贈答)から始まりますし、浮気している夫にピシャっと嫌味を言うのも歌です。また浮気に出ていく夫に歌をよんだらそれが夫の心を動かして浮気はやーめたなんて話もあります。また、今はもういない大切な人を思って詠む歌には哀切な心があります。
そして、目に見えないものに働きかけるのも歌。
そろそろお嫁に行きたいなぁという娘が霊験あらたかな神様にお詣りに行きます。そこでなんと娘は眠ってしまうのですが、ふと目をさまして実に上手な歌を詠むのです。神様の名前を入れた歌です。
そうしたら神様は大変喜ばれたからでしょうか、帰り道に、いまをときめく青年があらわれるんです。そして娘をさらっていって、北の方(つまり正妻)にしたというのです。
これぞ「歌のパワー」です‼
さて、貫之さん。この人、実はものすごーく画期的なことをやってのけた人なんですよ。
どうしても「古今集」のやわらかいイメージから、貫之さん自身も女性っぽい感じがしますが、実はこの方は結構日本の古典文学に大きな革命を起こした人だと私は思っています。
「男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり」
土佐日記の最初の一文です。暗誦されている方も多いことでしょう。
男なのに女になりすまして書いた・・・とよく言われて、「なに?変態なの、貫之って!」とか言われたりしますが、ご存知の通り、平安時代は漢字は男性が公文書を書くための文字として使うもので、ひらがなは女性が使うものとされていました。
(ひとつ前の奈良時代は漢字しかなかったから、万葉集はすべて漢字で書かれているんですよ。読み解くのは面白いけど、書きあらわすのは大変だったでしょうね。)
時代は平安。漢字は男性のもので、お仕事の記録のためのもの。つまりパブリックなものだから個人の気持ちをあらわすのは不適当。
そこで貫之さんは、あえて「ひらがな」を用いることでプライベートな「こころ」の様子を書こう!って思ったんですね。
ところが「ひらがな(仮名)」を使うのは当時は女性でしたから、土佐日記は女性が書いたんだという設定にしたというわけです。
土佐日記以降、才女たちが「私も書いてみよ!」って次々と作品が世に送り出されることになりますね。貫之さんがいなかったら、その後のすぐれた文学はなかったかもしれない、そう考えると貫之さんの仕事は画期的、まさにエポック・メイキングなわけです。
さて、エポック・メイキングどころか、これまで育んできたものを次々と大統領令なるものを出して壊しているトランプさん。
トランプの名の通り、いつどんな札を出してくるか、神経衰弱のゲームをやっているかのようにドキドキはらはらさせられる今日この頃です。日々エイプリル・フールのようです。「うそでしょ?」って感じ。
敵を作り、「悪」とみなし、やっつけていくのがトランプ流。
今の彼の経済的繁栄は、カルマの観点からみると、過去に、あるいは過去世でよい種を蒔いた結果なのかもしれません。原因なくして結果はないからです。
でも、多くの弱い立場の人をやっつけることを続けていく先には何があるか?
かつてバベルの塔は神の手によって壊されました。ではトランプの塔(トランプタワー)は?
春立つ日、やはり世界の平和と、本当の繁栄を願いたいと思います。
本日もおつきあいいただきましてありがとうございました。