今日から新しいスタートを切った方も多いかと思います。
社会人、という言葉に「身が引き締まります!」と入社式を済ませたばかりの若者が答える姿をテレビで見ました。
まさにフレッシュ、ですね‼
今どきの若者は、人と競うことをしなくなっているように感じますが如何でしょうか。
頑張らないわけでも、人に興味がないわけでもなく、人と比べることをしなくなっているように思います。
自分は自分、人は人。
人と争わない、という気質になってきているのかもしれません。
争って、いわゆる「良い企業」に入ったところで、生涯の安定が保証される世の中ではもはやなくなっていることも遠因になっている気がします。
それなら自分の好きな生き方をしようと考えるのは、ある意味賢いことだなと思います。
覇気がないというのとは違います。
優しさだって十分あります。
考えだって、結構しっかり持っています。
柔らかい感性と、がんばろうという前向きの意志を上手に引き出してあげるべき大人の方が、これまで経験したことのない世界の状況についていけなくて、何をどうアドバイスしたらよいのか困っているように、私は感じています。
「比べる」という漢字は、「ヒ」が二つ同じ方向を向いていますね。
「ヒ」は「人」をあらわすそうですので、「人」が同じ方向を向いていることを意味します。
同じ方向を向いていると何が起こるでしょうか?
親しくお付き合いできそうですね。
でも同じものを基準にしていると、そこから「比較」をし始め、やがて「優劣」をつけるようになったりします。
手元にある古典の辞書で「くらぶ」という単語をみてみると、
1、優劣・差異をくらべる
2、優劣・勝敗をきそう
3.互いに信じあって、親しくつきあう と出てきます。(新選古語辞典 小学館)
気持ちの順番としたら、初めは3番の「親しくつきあ」っているのだけど、やがて相手と自分をどうしても比べてしまって、「自分の方が劣ってるな」と悲しくなったり、「相手がすごいな」とうらやましく感じたりして、知らぬ間に「優劣をきそ」ってしまうのが人の常であるのかなと思います。
いっそのこと背中を向けたら楽になるのでしょうに・・・それじゃ、さみしいんですね。
ちなみに「ヒ」が背中合わせになると、そう、「北」という漢字になります。
漢文で「北」には「背中を向ける」ことから「逃げる」という意味にもなります。
近いから比べてしまうわけで、見えなければ比べないですみますね。
逃げて遠くに離れてしまえば、もう比べようがありません。
でも、これを人は望んでいるわけじゃないと思います。
人と共にいて、人は優れているけれど、そのことで自分は苦しまないですむには?!
自他の区別をつけないことです。
人のよいことを自分のよいことと感じるのです。
と言っても・・・どうしたらいいのでしょう?
いろいろと叱って下さり、恩恵を与えて下さったお花の先生だった小泉晁泉先生は、「どんな間柄でも何かを挟むと敵になっちゃうのよ~」とおっしゃっていました。
子育てを始めた頃、子どもが誰に似ているというのがよく話題になり、「この子、私に似ているはずなのに、親戚がみんな夫に似ているっていうから、最近夫のことが何だか憎らしいの」と語っている人がいました。
私自身は?と言えば、私に似ていると言われるのはあまり嬉しくもなく(自分の容姿に自信がなかったから)「誰に似ている」という話自体があんまり得意ではありませんでした。
仲のよい友人でも突然ライバルとなり得るし、親子でも敵対しないとは限りません。近ければ近い程、反目してしまうことも起こり得ます。
「比べる」ということをやる限り、つらい気持ちになったりしてしまうものだからです。
これを乗り越えるのが、「自他の意識をなくす」ことかなと思います。
「自分」も「ひと」もおんなじ。
そう思うととっても楽になってきます。
そうすると、「ひと」のことが「自分」のことのように思えるようになるからです。
「ひと」に起こったよいことが「自分」に起こったよいことのように思えるのです。
これは、絶対にお得な生き方です。
だって、自分にできることは限られているけれど、まわりの「ひと」の喜びが全部自分のことだと思えたら、それだけ喜びが増えるからです。
その代り、「ひと」に起こった悲しみも自分のことのように感じられてしまうのが、今の私の段階です。
ベトナムの女の子の葬儀、本当に大泣きしたくなります。
雪崩に巻き込まれた高校生と先生、無念が伝わり、こらえ難い気持ちになります。
悲しみも「ひとごと」に思えない代わり、「比べない」ことで「自他の意識をなくす」のは、気持ちが楽になるばかりでなく喜びが何倍にも増えるのでおすすめです。
だって、もともとはみんな根っこは同じだと言いますから。
私もまだまだの人間ですが、「比べない」ようになって断然楽チンになっています。
こうなったきっかけはやはり義母のことが「ひとごと」でないと思えるようになったことです。
決して綺麗ごとではありません。長く苦しい自分自身の心の歴史があっての今の私です。
本日もおつきあいいただきましてありがとうございました。