かつて巫女をしていたからでしょうか、神聖なところが大好きです。神社に限らず、教会やお寺でも雰囲気のある場所は心惹かれます。
その中でもお伊勢さまは別格でした。町全体の空気が違いました。流れている「気」がとても落ち着いているのですね。
伊勢市駅の門前を歩くと、各家にしめ飾りがあります。無病息災と旅する者を迎え入れようという意味をあらわしているようです。
それはこんなお話です。
昔、天照大御神の弟の須佐之男命(スサノオノミコト)が旅しているとき、蘇民将来(ソミンショウライ)という男が自分の家に招きいれもてなしたのだそうです。決して裕福とはいえない蘇民の、心のこもったもてなしに感じ入った須佐之男命が木でできた札を渡して、「これを門口に掲げておけば子や孫・ひ孫と災難から免れよう」と言い残したそうです。
以来、伊勢の家々では「蘇民将来の子孫の家」ということを示す飾りをする風習があるのだそうです。
京都の祇園でも同じ話をうかがったことがあります。素敵なお話ですね。
そんな参道を通っていざ鳥居の中に一歩足を踏み入れると、そこはまさしく「聖地」なのでした。気持ちいいなと感じる理由の一つが、鳥居をくぐる誰しもが一礼をする光景にあるかもしれないなと思いました。見えない(見えている人もいるのかも)存在に対する畏敬の念を、そこを訪れるみんなが心に持っているというところに安らぎを覚えるのかもしれません。変に神経を逆なでされることのない落ち着きと安心です。
参拝の前にはお清めです。手と口をすすぐことで、心も洗い清めるということです。
さらに歩き続けると、大きな何かに包まれている心地よさと樹々のつくりだす新鮮な空気に、静かな高揚感を覚えます。そこにある何もかもが、整って美しいのでした。
木は木であることが嬉しいと言っているような。
人々に踏まれている玉砂利ですら誇りを持っているような。
道具を収納する物置も、お社と同じように大切に造られているのがわかります。
そうして遷宮により新しく生まれ変わったお社は、厳かなのにあたたかいのです。
そこにあるもの全てが、分子レベルで可愛がられている。
つまり、存在を丸ごと認められている感じがしたのでした。
「だから心地いいんだ!」と気づきました。愛される存在は堂々として揺るがないんだなとも思いました。人に大切なのもこれなんですね、きっと。
木は木の役目を。
玉砂利は玉砂利の役目を。
物置は物置の役目を。
通り抜ける風にも意志があり、役割が与えられている感じがしました。
そしてお社は金ぴかな豪奢なものではないのだけれど、育つ段階で大切にされてきた愛に満ちた樹木が木材となったものだからか、「よい気」を発散しているのですね。
「外宮」でのお参り、風が吹きぬけました。すがすがしい感動のあるものでした。ただただ感謝。
樹々の間を通る太陽に光の神々しさ。誰にでも平等に降りそそぐ神の愛をそこに感じました。
さて伊勢神宮の「外宮(げくう)」は「豊受大神宮(とようけだいじんぐう)」の正宮です。天照大御神のお食事を作る神様として祀られているのだそうです。
一粒が万倍になる「稲」には力があります。その稲が日本の繁栄を意味しているのだそうです。
ですから、お伊勢さまでは毎日「日別朝夕大みけ祭」があります。白い衣をまとった神職の方が朝と夕の2回、火を熾(おこ)して、その火をかまどに移してお食事(みけ)を用意してお供えする、ということをなさっているのです。
お祀りする側も心をこめるから、神様も「霊気」というか「神気」に満ち満ちていて下さるのかしら、と思ったのでした。
参道のお店の方たちと言葉を交わしましたが、瞳の美しい方が多いように感じました。
明日は「内宮(ないくう)」の様子をお伝えいたします。
本日もおつきあいいただきましてありがとうございました。