ハナミズキが街路樹として人々に親しまれるようになったのは一体いつからだったでしょう。
今日は、せっかく咲いたハナミズキが雨に打たれて、元気がなく見えました。
晴れるのと雨が降るとでこんなにも風景が違って見えるのだなぁと思います。
さて新年度を迎えて2~3週間経ちましたね。
社会人として新しくスタートを切った方も、そろそろ馴れてきた頃でしょうか。
肉体的には疲労が出てきた頃かもしれませんね。
学校に入学したお子さんたちも、緊張が少しずつほぐれてきた頃かもしれませんね。
私が教えている高校1年生もだんだん慣れて打ち解けてきたせいか、先日の授業中、不意にこんな質問をしてきた子がいました。
「愛」という字を名前に持つ子がいたので、そのつながりで、「愛の反対は何だと思う?マザー・テレサは『憎しみ』ではなくて『無関心』だと言ったんですって」なんて話をしたからでしょうか。
「先生って、誰かを憎んだことってありますか?」
いかにも唐突な質問です。
こんな時が生徒との距離を縮めるチャンスだと思っているので、たとえ興味本位の質問であったとしても真剣にとりあうことにしています。
「どんな質問をしても真剣に答えてくれるんだ!」と知ってもらうことで、冗談のような質問は再びはしてこなくなります。もしかしたら尋ねる本人が真剣にその問題と向き合っているからこそ、唐突な質問をしてしまったのかもしれませんから。
「誰も憎んでないわね。」
そう答えた瞬間、教室がシーンとなりました。
私としても、即座に答えた理由は、それこそが自分の抱えてきた大きな課題だったからだと思います。
もともと何のきっかけもなく自分から誰かを憎む人なんていうのは滅多にいないのではないかと思います。けれども思いが真っ直ぐ伝わらず曲解されてしまったり、悲しいやりとりが続いたりするうちに苦手意識から段々とネガティブな気持ちになってしまうことは普通に起こり得ることです。
私にも残念ながら「理解してもらえない思い」から、苦手だなと感じてきた人がついこの間までいました。
その人の全てがイヤなわけではないのだけれど、何かがっかりさせられると「あぁ、やっぱりね」と自分に言い聞かせるようななことをしていました。
ところが、ある時その苦手だと思っていた人の姿を見て、まるで自分を映し鏡で見ているように思えたのです。
その人の中の嫌悪している部分、なんであんな態度なの?と思える部分が、実は客観的に見た自分自身だとある時不意に気づいてしまったのです。
その時、「あぁ、こういうことだったんだ‼」と気がつきました。
自分と、自分以外の人つまり他人、その自他の区別が一瞬なくなったのでした‼
普通に考えると自他の区別はした方がいいように思われますよね。
ところが、もっと大きな観点でものを見ると、自他の区別は無いに越したことはないのです。
言い換えると、「はらから」の意識なのかもしれません。
「はらから」とは、同じ腹から生まれた「きょうだい」ということです。「同胞」と書きますね。
ひとのことも自分のことのように思えたら、とても楽になるんです。
そして、自分を大切に思うように、ひとのことも「他人事」ではなく大切に思えるようになるので、とってもお得なのですね。だって人に起こったよいことが、自分に起こったことだと思えるということにつながるからです。そうできたら、世の中喜びだらけです‼そう考えただけで、何だかワクワクしてきませんか。
今晩は、大学生の長男の高校時代の部活の仲間の先生とママたちとの飲み会がありましたが、活躍しているママやそのお子さんたちのことを自分の延長線だと思ったら、話される内容全てが喜びになってきます。自分のことは棚にあげちゃってもいいんじゃないかなぁと暢気に、けれども真剣にそう思うのです。
本日もおつきあいいただきましてありがとうございました。